組織って難しい

学校というのは、学級という組織を一つの単位とした寄り合い所帯みたいなものであり、生徒会組織だとか、学級組織だとかいうような組織によって、個々の生徒たちは編成されています。
同じように、職員もまた組織を作っている。学校というのは、実に組織なのですね。
学校は集団生活を学ぶ場だといいますが、それを言うなら組織を学ぶ場なのではないかと思います。

福岡のいじめ問題が話題となって、世間ではいじめ問題が俄かに活気を帯びて議論されています。
現場にいる人間でありながら、ぼくはちょっと遠まきに眺めておりました。
そして、いじめという言葉の内実についての複眼思考が働かないまま、やれ学校が悪い、教師が悪い、今の子どもたちが悪い、いじめられるやつも悪い、という話の出口のなさに辟易していました。
まず、学校が集団生活を学ぶ場だという言い方があまり好きではないのです。なぜなら、そこで言う集団生活というのは、皆が右向け右式の同調圧力に屈服することを意味しているような気がしてならないからです。これは文化的な問題かもしれませんが、集団に自分を合わせることをよしとする風潮があります。一見もっともなのですが、ぼくからすれば、そんな集団こそ病気です。だってそんな全体主義軍国主義時代の日本に逆戻りじゃないですか。ファシズムそのものです。
ぼくは、養老孟司の言う、皆と違っていいというような、一人ひとりの違いを認める集団こそ健全、というよりも居心地がいいという立場に賛成です。

じゃあ、教員組織はどうかというと、子ども以上に右向け右式のような気がします。少なくともぼくの見る限りにおいては。教員もまた、集団に自分を溶け込ませることによって調和を保つことをよしとしているのです。その技術は、洗練を極めており巧みです。そのような教師が子どもたちに何を教えようとするかは自明です。集団に溶け込むことをよしとする価値観のはびこる中にあって、子どももまたその価値観に従って生きるしかないような、やせ細った「集団生活を学ぶ場」が学校なのではないか。そうであれば、未熟な子どもが集団の病を発病するのも必然と思われてなりません。すでに職員集団にその兆候は現れていると感じます。