「猫の墓」

『永日小品』の中の「猫の墓」を読む。今でいう「ひきこもり」になっている夏目家の猫が、精神的な危機に陥っていくさまが、漱石の観察を通して語られる。猫の尻尾の毛は抜け落ち、これが人間ならば円形脱毛症とういことになるだろうが、円形脱毛症がストレスによるものだということは子どもでも知っていることである。
夏目家の「ひきこもり」の猫は、ストレス性の円形脱毛症に罹り、精神的危機に陥っているのだ。これを読む生徒たちは「可哀相」といい、どうして漱石は助けてあげないのか?と言う。
この文章を読む限り、漱石は傍観者の態度を貫いている。それは家族の中でも同じこと。漱石の家族におくる眼差しもまた、傍観者のそれである。観察というのは、外側に立って眺める態度を指す。それを分析家と言ってもいい。分析を行うものは、現実には、行動から遠ざかる宿命を背負っている。ゆえに、世の中(現実の人間関係)から疎外された位置に身を置かざるを得ない。それはある種の孤独をもたらす。この分析者としての位置は、恣意的に選べるものではない。なるべくして、そうなるのである。そこに悲劇があると言えるかも知れない。尤も漱石は悲鳴をあげたりはしない。ただ、死んではじめて周りから同情される猫の姿に、生前には理解されなかった悲しみを、ある種の共感をもって描いている。