早熟型と大器晩成型

中年にさしかかってくると、急に眼が悪くなり、もう老眼なのだと知ってかなりがっくりくる。
耳も聞こえが悪くなり、一回で相手の言っていることが聞き取れないこともしばしば。
人生は長くなったが、体の衰えはすぐにやってくるので、若い人はいつまでも若いと思うこと勿れ。


今ではボサノバ定番曲だが、当時はパイオニアとして、時代をリードする新しい音楽(文化)を作り出すという熱情があったのだろう。
今は新しいものを作り出すことより、これまで蓄積されてきた先達の遺産を、いかに学び直し、再構築していくかという時代になってきているのではないだろうか。
ロックももはやクラシック音楽の仲間入りである。

だから70年代以降に青春を駆け抜けた世代の人間にとっての音楽と、今を生きる若い人たちの音楽って、少し受け止め方は違ってくるんじゃないだろうか。
バンドブームが過ぎ去った今の時代、若い人は何を思ってバンドをやるのか。ちょっと興味深い。

今日は別の話。「早熟の天才」と「大器晩成」について。
河合隼雄によれば、ユングは無意識を「個人的無意識」と「集合的無意識」に分け、思春期~青年期は「個人的無意識」と格闘して自我を確立する期間、中年~を「集合的無意識」との格闘期間、とした。自我が確立された後、中年になって集合的無意識を問題にできるようになったとき、初めて大きな仕事に着手できるため、中年以降大きな仕事が完成すると予言したそうだ。
しかし、中年期以降の大きな仕事も、その芽は青年期にあると言う人もいる。
科学的な大発見は、たいてい10代にその萌芽があるという。数学的な大発見は、若くしてなされるとよく言われる。
でも、早熟の天才は、その才能を早く発揮してしまったために、残りの人生を凡夫として生きるのだろうか。
ピカソも14歳でルネッサンス期までの画法をマスターしてしまったために、その後完成された自分を壊し、絵画の新たな可能性を模索しなければならなくなった。いわゆる「青の時代」というやつである。(『何のために学ぶのか』ちくまプリマ―新書)
早く才能を開花させたとしても、人間の完成に終わりはなく、そこからまた新たな創造に向けて、何かを生み出そうと自分を壊し、再び生きなおさなければならない。ピカソは二度生き直したと言える。早熟も大変なことだ。
でも、こうも言えないだろうか。
早熟な人間であっても、やはり「大器晩成」型なのだ。凡人は一度目の開花を中年期以降迎えるが、天才は二度目の開花を迎えるのだと。