場の倫理

一日の集中力には限りがある。
仕事を終えて帰宅の途につころには、もう解放されたくて、家で仕事のことを考えたくはない。
かといって、アフター7に習い事に通ったりする気にもならない。
以前であれば、飲んだくれて一人舞い上がっていればよかったが、今はそういうわけにも行かない。
自然、足はカフェに向く。
カフェで本を読むくらいが、ようやっとである。
希望を言うなら、語学を勉強したり、数学を一から勉強し直したり、歴史の本を読んだり、経済学の勉強をしたり、はたまた楽器を練習したり、人と会ってお喋りしたり・・・・・・
まぁ、勉強や本を読むくらいなら、カフェでできるが、それ以上は無理である。
また、飲まない生活を続けるためにミーティングに通うこともある。

それにしても、仕事帰りにカフェにいられるのも、せいぜい1時間くらい。
集中力が続かないためである。
こまめに充電しないと、すぐにバッテリー切れになる粗悪な電池のようだ。
だから、適度に休息を取りながら、しかしやるべきことはきっちりとやれるようにしなければ、と思う。
こうなってくると、仕事もプライベートも変わらなくなってくる。

こうやって、何も成し得ないまま歳だけを重ねていくのだなと思うと、なんだか寂しい。
何かを成し遂げたいという欲求が強いのだ。
死を恐れる気持ちも強い。無為に死ねないと思う。
こういう心情を持つのも、時代のせいかなと思ったりする。
僕だけでなく、他の人も同じように焦って、何かに急き立てられるように、プライベートの時間を過ごしているのだろうか。
手帳の空白が埋まらないと憂鬱だという話も聞く。
現代の病と言えそうだ。

「場の倫理」と「個の倫理」という問題がある。(詳しくは昨日紹介の河合隼雄参照)
日本は「場の倫理」が強い。
よく職場で、飲み会が熱心に行われるのも、この「場の倫理」と深い関係があると僕は見ている。
場の空気が支配的な日本の集団形成の力学においては、飲み会こそ、同じ場を共有する者同士の確認なのではないだろうか。
ナンセンスにしか思われない会話が多いと感じるのだが、同じ場を共有している者同士は、そうした会話で楽しそうにやっている。何がおかしいのか、よく分からないことが多い。誰とも同じ場を共有していない人間にとっては、意味不明なのである。なぜそこで笑うか、話しのポイントがいまいち飲み込めない。
しかし、逆にこうとも言える。当事者同士では分かり合える会話を延々と続けることで、同じ場を共有していることを確認し合っているのだと。
だから、他の人間にはよく呑み込めないのも当然なのである。
また、こうも言える。同じ場を共有し合う必要があるのは、同じ場を共有しない人間がいるからだ、と。
仕事なんて、同じ目的を持つ者同士の協力関係なのだから、友達であることより、同士(同僚)としてどう振る舞えるかが大事なのだと僕は思うのだが、実際はそうはならない。同僚性ではなく、お友達が優先するのだ。(少なくとも、僕の周囲はそう見える)
しかしそれも、「場の倫理」と考えれば納得が行きそうだ。
場の倫理を共有できない人間とは、一緒に仕事なんかできないのである。逆に言えば、「場の倫理」を超えて結束できるほど仕事の目的は明確ではないのかも知れない。曖昧な目的のために、かえって同僚性の確立が疎外されているとも言えるのかも知れない。
いずれにせよ、こういう「場の倫理」に支えられている集団の在り方は、大人も子供も変わらない。
だから、いじめ撲滅キャンペーンなどといっても、皮相に終わりそうである。
空気を読めない人間を排斥するのは、大人も子供も同じなのだ。
集団形成の力学を批判し、新たな集団の在り方を創造できるようになれば、今起きている「いじめ」というものはなくなるだろう。(けれど別の新たな問題が顕現するかも知れない)