意欲の問題

しばらく音楽から離れた生活を送っていたが、先週ちょっとした用件が入り、少し音楽に浸かる。
そのせいかどうか知らないが、急にギターが恋しくなり、一人エアーギターで遊んでいたら、ピッキングの自然なフォームについてのアイデアが浮かんで、前回のブログにちょこっと書いた。
一度ハマると、結構夢中になってやる性格のようで、音楽やギターもハマり出すと寝食を忘れてそればっかりやり始める。熱が冷めると、半年くらい平気でギターを放り出していることもあった。
熱しやすく冷めやすいのは性格上の欠点だろう。一つのことを極めることができない。一生このままかも知れないと思うと、残念な気がする。
やはり、意欲とか情熱とか、そういうものが何事においても必要で大事である。

語学の勉強でも、経済学の勉強でも、スポーツでも、それが面白くて情熱の対象になる限り、かなりのところまで独学で行けると僕は思っている。
でも、情熱がないと、学校などに通って環境の力で学ぼうとなるわけだが、そこで情熱を発見できれば成功し、情熱が発見できなければ、卒業と同時に学んだことすらさっぱりと忘れ去るだろう。
意欲と情熱、これ以外に物事を成す秘訣はない。

ひと月ほど前、都営の新宿駅構内で、トランペットを吹いているヘブンアーティストのおじさんがいて、その音色がとても美しかったので、質問をしてみた。
どうやったら、そんなきれいな音が出せるのですか?と。
すると、そのおじさんは、こう答えてくれた。

楽器の良し悪しではないですね。
土日だけバンドや楽団などで吹いている素人さんで、とても高級な楽器を使っている人がいるけれど、週末にしか吹かないから、あまりいい音が出ていない。一方で、安い楽器なんだけれど、毎日吹いているから、とても豊かな音色で吹ける人がいた。
アンブシュアなど理屈を本で読んで勉強したからといって、それで吹けるようになるわけではない。
毎日、2時間とか3時間とか、吹き続けているうちに、おのずと上達してくるものですよ。

これを情熱と言わなくて、何と言うのだろう。
理想の音をイメージして練習しろ、などと言うのは、情熱を保つためなのではないだろうか。
適当な練習ではなく、目指すべき音のイメージめがけて一心不乱に練習に取り組むイメージだ。

方法論は教えることはできるかも知れない。
でも、情熱はだれにも教えられない。
意欲や情熱を持つことが大前提なのだが、その意欲や情熱をどうやったら持てるかは誰にも教えられない。
だから、意欲や情熱を持つことができたら、それは天の恵みのようなものなのだと思う。
ただ、意欲や情熱を持つチャンスを与えることは、他者の働きかけによってできるかも知れない。
そのチャンスをものにできるかどうかは、結局は本人次第ということになるだろうが。

教育というのは、チャンスを与え、意欲や情熱を本人に見つけさせ、育てさせること以外にないと思われる。
しかし、多くの場合、教育は方法論の伝達止まりである。
意欲や情熱は与えようとしても与えられない。本人の自由な活動を許し、その中で本人が発見したものを認めて励ますこと以外にないのではなかろうか。そう僕は思う。
だから、本人が意欲を見いだせないというなら、それを教師は受け入れるしいかないのではないだろうか。
別の機会(チャンス)を与える努力をし続けることが、教える立場にあるものにできる唯一のことだ。