本日の雑感

今日は午前中は歯医者に行く。歯のクリーニングをしてもらう。
午後は、護国寺で平岡宏一氏と石濱裕美子氏の講演を二本聞く。
来月のダライラマ14世による灌頂儀式のことや密教のことがテーマで、ある程度知識を持った聴衆を想定したうえでの専門的な話だった。(実際に聴衆はみな一定の知識をもった方々のようだった)
平岡さんの話は、僕には専門的すぎてのっけから難しかったが、話の理路明解なことは僕にもわかった。そしてチベット仏教の師弟関係のなかで受け継がれてきた何かを持ってらっしゃる方だということも理解できた。
そんな平岡さんに対して、石濱氏は「先生」と呼び、平岡氏も石濱氏を「先生」と呼び合うなど、互いに敬意を表し合う間柄なのだということも伝わってきた。
今の時代は、仏教に対するリバイバルブームがある一方で、個人が浮遊し孤立せざるを得ない時代である。頼れるものが少ない中で、どうやって安心安寧を手に入れられるか。そこに大きな格差が生まれつつあるように思う。(収入格差ではない。高収入でも孤立するし、低収入でも安心安寧を得られるという逆説はありうる)
仏教は、孤立した個人を救うポテンシャルをもっていると思う。
ただ、時代が、人々が、仏教のポテンシャルに気づいていない。
勿論、気づいている人は気づいている。ただ、気づくべき人が気づいていない。そこが歯がゆいところだ。
毎年チベットの寺に通って勉強できるということは、そもそも相当に恵まれた環境にある人だからこそできることだ。(ただ、恵まれていても、毎年通い続けることは容易くはない。二足の草鞋を履けるタフな人にしかできないこと)
日本では、貧困問題に対する支援が話題になる。無視できない問題だ。
しかし、今貧困にあえいでいる子どもたちは、アウトローであろうとなんであろうと、生き抜く術を身に付けて、生き抜く努力をしているにちがいない。
貧困によって押し出された先のアウトローの世界は、それはそれでスリリングであったり、身を寄せ合う仲間がいたりして、逆に人生の真実の一端を垣間見せてくれるものでもあるだろう。その世界を謳歌するものもいるだろう。
だから、 いちばん可哀そうなのは、そのどちらにも属すことのできない、あぶれた者たちである。
この話に結論はないが、今そうした犠牲が話題になっていないからこそ、不気味なのである。