対話のない社会

僕は「議論」という言葉が好きだ。
議論によって正々堂々と互いの主張をぶつけ合う。なんてフェアな関係だろう。
しかし現実はどうだろうか。
これって本当に「議論」なのか?と思ったことはないだろうか。
職場での会議はどうだろう。
僕の個人的な経験範囲で言うなら、職場の会議は議論ではない。あれは、ただの確認に過ぎない。あるいは周知事項の周知徹底に過ぎない。
何を決めるにも事前の根回しを必要とする社会である。
空気が支配している社会といってもいい。
事実「空気を読める」ことが「大人の条件」になっているくらいだ。

こんな状況で、本当の意味での議論なんてできるのだろうか。
結論。
僕は日本という国には、つくづく議論というものがないと思う。
議論が成立しない国。
沖縄問題一つ見てもそう。今回の安保法案についてもしかり。
マスコミの報道も醜悪なレベルで、議論の問題点に言及しているマスコミは存在しない。
「さらなる議論が必要」などと、まとめる程度のことしかできていない。
よくそんなことがシャーシャーと言えるもんですね、と思う。

職場を見れば、管理職レベルでも本当に議論を尽くすことを知っている人は少ないのではないか。というか、僕はまだ見たことがない。
議論によって何かが動くということは、ちょっとないな。
それが、僕の知る日本の社会のまごうことなき一面である。

「対話」という言葉がある。
この言葉は、ソクラテスプラトンが対話によって哲学的な考察を深めたギリシャ時代の言論活動を意味している。今も哲学的な対話を求める市民レベルでの草の根活動が存在している。「哲学カフェ」だ。
社会は今、対話によって問題を掘り下げ、深いレベルの交流を行おうとしている動きがある。
僕は、議論=対話だと考えている。(※間違いがあれば、どなたかご指摘ください)

ヨーロッパの文化の基盤には、「対話」がある、多分。
先日見た池上彰の番組で、ドイツの戦後処理の問題が取り上げられていた。ドイツの学校では、ナチスの暗い過去を対話によって教師と生徒が考える。そんな授業が展開されていた。「対話型の授業」と日本では言っているが、授業とはそもそも「対話」なのではないか。
そんなことを考えている

この国には対話はない。
お喋りならある。つまり「会話」である。会話は鶏だってできる。
しかし対話は人間にしかできない。
会話から対話へと飛び立つことのできない卑小な文化を、戦後の日本は築いてきた。それは、何を得た代償だたのだろうか。

これからの日本の社会は、きっと対話のある社会へとシフトいくべきだし、もうその沸点が目の前に見え始めてきたと僕は思っているのだが。