教育と日本社会の階層化について

最近は、大阪市長の橋本氏と、社会学者宮台氏の発言をたどる作業をしていました。
といっても、今はとても便利な時代で、YouTubeで検索すると、膨大な映像資料に辿り
着けるのです。(とても簡単!)
そもそもは、大阪の部活体罰問題を調べてみようとしたら、この二人の発言をさかのぼる
ことになったというだけなのですが。
でも、橋本氏も宮台氏も、とても刺激的な存在であることは間違いありません。
 
まず、前提としてあるのは、「今の社会は間違っている」という冷徹なる認識です。
そして、その原因論や、判断の根拠となる思想的立場によって、右派になったり左派になったりする。
しかしそれは、一般のジャーナリズム報道の中では歪められてしまっているという別の問題がある
ことにも注意が必要です。
では、正しい報道はあり得るのか?
その意味で、「第3の選択肢」的な、しかももの凄く重要な存在が、神保哲生氏のやっていらっしゃる
仕事、Video News. com であることは間違いありません。
いずれにせよ、今の時代において、政治的にナイーブであることはちっとも美徳にはならないということを認識しました。すべての存在は、意識せずとも必ずある立ち位置に立っているのであり、それはなんらかの意味で、必ず政治的な存在となっているのです。そのことに最後まで無自覚である無邪気さを「ナイーブ」とぼくは言ったのですが、それは別の言い方をすれば「アホ」ということと何ら変わるところがない。
「ナイーブ」は美徳ではありません。
 
橋本バッシングなるものの本質が、空疎化した日本の言論体制、民主政治の在り方、そんなありきたりな言い方をしないでも、要するに日本人がアホになっていることの証なのは間違いないとぼくは思います。
村上陽一郎氏の『あらためて教養とは』という本は、すごく参考になります。
今の社会における教養、知識人の在り方について考えることは、とても大事だと再認識しました。
 
今の学校教育はとても不徹底不十分なものです。形骸化の非難は免れません。
しかし、そういう教育にしてしまったのは、この国の民度の低さでもあるのでは?
要するに、文明や文化の崩壊過程に、今われわれはあるということではないでしょうか?
それを立て直すチカラは、学校組織にはない。行政にも、当然ながらない。
落ちるところまで落ちるという趨勢にあります。(驚かないで)
勿論、心ある教師は、個々に何らかの手を打とうとしているのでしょうが、風前の灯くらいのものでしょう。
 
日本は、家庭の文化レベルに応じた差別化、階層化が進行していくことになると思う。
つまり、平等を前提とした戦後民主主義の誤謬が、今になって正されるときが来たとも言えるかも知れない。
そして、ポテンシャルの高い個人は正当に評価され、ポテンシャルの低い個人は、落ちるところまで落ちる社会が形成されつつあるのではないか。
それは、教育ひとりだけの責任ではないはずである。
その続きは、みなさんが個々にお考えください。