出会いに関しての一考察

どこにも「出会い」などない。世間では婚活だの女子会だのと騒がれているが、草食男子も肉食女子もメディアが作り出すフィクションに過ぎない。
実際は、どこにも出会いがなく、「結婚はしなくってもまあいいか」とのたまう男性諸氏と、「結婚しろ」という目に見えない社会的圧力に敏感な女性たち、しかもご本人は「適齢期」や「出産年齢」の呪縛を感じてしまっていて、ついつい〈がっついて〉しまう女性の方々なのである。
出会いについては、昔と今では大分時代が違うようだけれど、お互いに刺激を与えあえる異性と出会いたいという欲望は、今も昔も変わらないはず。結婚していようが、していまいが、それは変わらないはず。ただ、結婚して子育てすることになった女性たちは、自分のことより子どものことを考えざるを得ず、必然的に自己の欲望を抑えてしまうことになっているに過ぎない。それが、今の中年女性の問題であり、女性誌の創刊の意図もそこに見出せるのだ。
今、認識すべきなのは、男も女も直接的には結び合わされず、お互いが知り合うべき〈場〉が必要ということだ。
いきなりメールで「付き合って!」と言ってくる男がウザいのと同程度に、そんなことを感じさせる言動をする女は男にとっても、やはり「ウザい」のである。この女の魂胆は何か?と懐疑的に見てしまうものだ。
もっとソフィスティケイトされた出会いの方法が必要になる。
それは、〈場〉を介するということではないか?
ある〈場〉に、男もオンナもアクセスしなければならない。しかし、そのアクセスする行為を通して、互いのクレジットを担保しあう、そういう場の設定が必ず必要だと思うのである。
それはどんな場なのか?分からないが、少なくとも、文化的な場である必要がある。でなければ、街頭のナンパと何ら変わらないではないか。
問題は、その〈場〉に至っても、声をかけられない男たちのていたらくである。やはり最後は、声をかけるという能動的なアクションを起こせる男なのか、そうでないのか、ということが大きな分かれ道になるのではなかろうか。