ダンシャリアン

「ダンシャリアン」という言葉をご存知だろうか。
最近流行りの「断捨離」を実践する人たちを総称して、こう呼ぶそうだ。
モノで溢れかえっている現代日本。モノは増殖に増殖を重ねる一方、狭小住宅には限りがあり、いつか限界を超える。この問題をどう克服していくか。
結論は、〈いかに捨てるか〉という問題にたどり着く。超整理法」しかり、「捨てる技術」しかりである。
僕たちは、物を所有するという観念そのものを、再検討すべきときに来ているのかも知れない。
今はこんな不景気で、雇用も不安定な時代である。ものを所有することが善であるとする価値観が、簡単には否定し難い時代でもある。捨てる余裕がある人たちは、持てる人たちの特権だという批判もあろう。確かにそういうことかも知れない。
たとえば、僕はギターが趣味なので、卑近な例を挙げさせてもらって申し訳ないが、ギターもある種のコレクターズアイテムなのであり、少なくともクラシックギターアコースティックギターエレキギターの3種類がある。なおかつエレキギターにおいては、フルアコースティックエレキギターもあれば、セミアコースティックギターもあるし、なおかつ一般的な認知を受けてたソリッドギターもあるのである。さらにソリッドについてはフェンダー系もあれば、ギブソン系もあり、ひと通りのギターを家に置くことはちょっと難しい。それだけのスペースのある家を持てる人は限られる人々であろう。一般庶民としては、冒頭に述べた3種を持てれば十分なくらいであろう。
しかし、ギタリストにとっては、様々なギターの可能性を試したいわけで、機材への果てしない物欲が続くことになる。
そこで、ある時思った。
ギターは所有してはならない。「間借り」するべきである、と。つまり、一時的に貸してもらうのである。
そもそもギターは、品質がいいものであれば、稀少材を使っていて、そうそうに再生産できるものではない。言ってみれば、一点もの。そういう機材を求める気持ちはあるけれど、庶民には適わぬ夢である。たとえば、ロベール・ブーシェクラシックギターは一千万円を下らないといった高価さなのである。
だからこそ「所有」なんてケチなことを言うべきではない。中古品にも十分価値があって、持ち手から持ち手へと代々受け継がれていくようなものなのではないか、とはたと思い当たったのである。
僕は、楽器は中古品でも十分だと思うようになった。むしろ、中古品であるべきとさえ思った。有名なアーティストが、中古品を求めるのも、あるいは同じような考えがあるからなのかも知れない。
断捨離の本質は、「所有」の観念を変えることに違いない。
そういう視点で、最近は楽器を眺めたいと思うようになっている。
先日、高級品を普段使いするという記事を書いたのも、背景にはそのような考えがあったからだ。批判的なご意見を持つ方もいらっしゃるようだから、一応ご説明申し上げたまで。