「虐待児童」「市長リコール問題」テレビ番組を見て

今日のNHK教育テレビで、虐待を受けた子どもを育てる療育園のドキュメンタリー番組を見た。その壮絶な荒れる子どもたちに、何年も寄り添いながら、それこそ擬似家族となって絆を結んでいこうとする職員たちの悪戦苦闘と、子どものささやかながら大きな変化に感動させられてしまう。世の中には、このような尊い仕事もあるのである。誰にでもできることではない。
生半可な覚悟では、この仕事には耐えられないのではないか。
虐待は、子どもの成長を大きく損なう。損なうどころか、禍根を残す。その負債を返済するのは、まともな家庭で育つ子どもの数倍いや数十倍の労力を必要とするに違いない。それを、支援していく施設の人的、経済的なバックアップはいかほどのものなのであろうか。番組はその点には触れていなかったけれど、とても重要な問題だろう。
それから、鹿児島のとある市の市長リコール問題に関するドキュメント番組を見た。
この問題も、最初は「独裁市長への議会と市民の反発」と理解していたけれど、実情はいささか込み入っている。番組が伝えているのは次のようなこと。
市長は、議員や市役所職員の既得権益を剥奪しようとしている。議会や役所の反発は相当なもの。議員たちは市長の政策に悉く反対し、案件は全て否決されてしまう。一方市長の考えは、「もはや議会が議論の場として機能しない以上、公益を守る市長の立場を貫くのなら独裁的な方法も致し方が無い」というもの。この平行線が、今回のリコール問題へと発展した。問題は、市長も議員もともに市民が選挙で選んだ存在である、ということ。どちらも市民の意見を代弁していて、その両者が対立しているという「ねじれ問題」が背後には見え隠れしている。
市長のリコールをめぐる署名が定数越えをした今、改めて市民は、どちらの意見に耳を傾けるべきか考えなければならなくなっている。
市民の民度の高さが、この結果を左右するのだろう。
この番組は市長の目線に立って作られた、なかなか秀逸なドキュメントだった。
「独裁市長への議会と市民への反発」という単純な図式で語られることの多かったメディア報道に、風穴を空けるような爽快感がある。報道の本来の意味もそこにあるはず。そう、物事はそれほど単純ではないのだから。