趣味と職業

文房具評論家の土橋氏のブログで、リージャスというレンタルオフィスの紹介記事を読んだ。
土橋さん曰く、“会社員のときは満員電車の中で「自宅で仕事できたらいいのに」と思っていたけれど、実際に自由の身になると、何かに帰属したくなるものみたい。”
う~ん、さもありなん・・・と思った。
ぼくたちは「完全な自由」など欲していないのだ、多分。不思議な話だけれど。
その問題は、人間はなぜ労働するのだろう?という哲学的かつ本質的な問いに行き着くのだけれど、そこにはあえて触れないこととする。(興味ある方は内山節『哲学の冒険』平凡社文庫をご覧下さい)

とにかく、ぼくたちは労働する。
第一には金の為である。この仕事で食べさせてもらっているのだと思えばこそ、不満も腹の中にぐっと収めるのだし、面倒な案件でも我慢して付き合う。それどころか、責任を取る覚悟を持ったりさえするのである。ぼくたちは安定収入をもつがゆえに、「派遣村」の彼等を対岸の火事のように思って安穏とお茶を啜れるのである。そういう自分の境遇をどこか喜んでいるのも事実なのである。
第二には、仕事によって自分が創られていると思うためである。アイデンティティーなのだ。社会はぼくを職業で判断するだろう。ニュースでは、犯罪を犯したものは実名と職業をセットにして報道される。職業は名前と同等の価値を持った、アイデンティティー・ワードなのだ。
ぼくの今の興味は、プライベートの労働についてである。ぼくは、プライベートでも自分の好きなことのために、いろいろな行動をしている。それは、給料は出ないから仕事とは言えないけれど、義務と責任もあるので、ちょっとした仕事ともいえそう。「趣味の仕事」と言っても差し支えないだろう。その「趣味の仕事」は、第一の理由は当てはまらない。「金の為」ではないのだから。では、第二の理由は? 「自分が創られる」ということ。これは当てはまる。ぼくは「自分」の新たな創造を期待して、休日を使って私的な活動に時間とお金を投資して、活動をしているのだ。
ぼくは、人間の仕事を二つに分類していいと思う。共通しているのは「自分を創ること」。
その為に、義務と責任を負った金になる職業と、義務と責任はそれなりにあるのだが金にはならない趣味の二つの世界を持つに至ったのである。