死を思い、生に希望を持つ

清志郎が死に、Michael Jacksonが急死し、今日の新聞には川村カオリの訃報が載った。
多くの人が死んでいくのを聞くにつれ、生きている今の自分の残された時間を思う。
川村カオリ乳がんと闘っていたことは死っていた。38歳の死。あまりに早い。
■自分の人生の残り時間を考えつつ、何を目標に今の自分は生きているのだろうと、ふと考えてみたくなる。あまりに安穏とした生活である。不景気の昨今にあって、経済的な余裕がめちゃくちゃあるとはいえないが、まぁ、あまり心配しなくても生きていける。しかも自分の好きなことを追求する時間と精神的な余裕がある。これは、教員という職業のアドバンテージだと思う。
■「私」とは、時代の生んだ意識であろう。「私」を定義づけるのは時代であり、歴史である。時代は歴史の産物だ。ゆえに時代をどう見るか、時代に規定された自己をどう見るかは、歴史認識のあり方と隣り合わせなのであろう。歴史を知ることとは、知の基本的なあり様なのではないかと、最近は考えている。僕は、自分を規定するいかなるレッテルからも自由でいたい。今の自分の社会的地位や、学歴や、その他のすべてのレッテルから自由になって、そこから再び世界を眺めたいと思う。
■今の自分の境遇を生かしながら、自分に出来ることを探求したいと思う。適度なお金があり暇がある。世界の屋根裏に潜んで、そっと世界を観察したい。そして、今まで自分が考えもしなかった世界の神秘に目覚めたい。もちろん世界の全てを知ることなど不可能だ。全知全能な存在があるとしたら、それは神だけであろう。誰も神になどなれない。ぼくは神になどなるつもりはない。きっと何も知りえずに死んでいくのだ。それは万人の運命である。