『知的生産の技術』は更新されなければならない

今、加藤秀俊の『取材学』を読んでいる。索引の重要性という話が出てくる。
加藤氏は、読書を二つに分けて捉えているようだ。
(1)読み物としての読書
(2)調べ物として使うこと
そして、情報過多な現代社会においては、(2)の読書法を人々は知るべきであり、そのためには索引が必要だという。確かに。
「愛読書」とか「座右の書」というものも大切。つまり、手垢が沁みこむまで読み込むっていう読書です。

でも、調べたいことを探すときに役立つ文献として、書物の利用法があるのだ。その場合、索引が重要な働きをする。専門書に索引を施すのが当然になっている米国に比べ、日本には索引を作る文化がないと加藤は嘆く。
しかしPCがこれほど発展している現代においては、索引がない書物も心配するに及ばない。
なぜなら、その書物について、誰かがウェブ上でコメントしているからである。それは、PCさえあれば検索が可能なのだ。つまり、PCが「索引書」そのものとなるのである。索引が付されていない書物についても憂うべからず。どこかのだれかが、ウェブ上でコメントしてくれているに違いない。そんな楽観的な見方に立って、現代の情報氾濫の状況を眺めよう。
情報に溺れずに、情報を利用しよう。水に溺れず、水を利用して水力発電をやってのけるみたいに。
今日の結論。PCを上手に使うということだ。
現代の知的生産の最大のツールはPCである。
しかも、誰もその使い方は教えてくれない。そこが問題だ。
図書館の使い方を、誰も教えてくれないのと一緒だ。

だからこそ、PCの使い方というものが、現代の知的生産において以前にも増して重要な意味を持つ。
そのうち誰かが、『知的生産の技術』を更新してくれないかな。