二層にまたがる自己、歴史、不満

人は、生まれる時代を自ら選ぶことができない。
この時代を生きることを自ら選択したものはいない。

人間には二つの側面がある。一つは「普遍」を求める側面だ。
いつの時代でも変わらぬ人間の本性がある。喜びや悲しみといった感情は、時代を超えて、人々に共有されるものであるだろう。でなければ、現代人にシェークスピアの悲劇が理解できないことになってしまう。
その一方で、人が何に喜びや安息を見出し、どのような呪縛から逃れようとするのかは、時代によって違う。つまり「歴史」に規定される側面だ。

この二つの側面のあわいに現象するのが、人間の一生ということになろう。

ぼくは、ぼくという人間が、自意識や自尊心、己の幸福や利己心を求めてやまないエゴ的な存在であることを自覚している。その一方で、ぼくは、この大きな歴史のあわいに規定され現象しているなにものかであるという意識も持っている。
ぼくはぼく自身の幸福を求め、かつその「幸福」が時代に規定された卑小なものでしかなく、その「ぼく」は歴史に働きかける主体でもある。二つの大きな層にまたがって在るという自覚。

多くの人は、この二つの層に分裂している自己に対する自覚を持っていない。
自分は自分という、やや生意気な「自意識過剰病」に陥っているのだと、ぼくには思われてならない。
そりゃ、自分は自分には違いないだろう。自分はこれが正しいと思ってそうしていることが殆どだろう。しかし、それが正しいと思う根拠は何なのか? それははなはだ怪しい。時代に規定され、利己心に規定された卑小な自己の価値観でものを言ってはいないか。そんなバカなことを言う自己とは、所詮歴史に規定された自分で、その意識そのものが、一つの現象でしかないような………そんな卑小な自己を絶対化していることへの違和感こそ感じるべきである。

例えば、電車がトラぶって、どこかの駅で立ち往生してしまったとき、駅員に噛み付いているオヤジは、自己の不運な人生への恨みをぶつけているに過ぎない。だって、それは駅員にも止められない不可避の力によって起きたことだからだ。そんな道理を理解しないでキレているオヤジを見ると、ぼくはムカつくを通り越して、哀れに思われてならない。そんなオヤジは、きっと苦湯を飲まされ続けてきたにちがいないのだ。人生を恨んでいるからそうなる。
そこから導き出される解は、それぞれの人間が、正しいと思ってしていることが、大きな間違いだったり、混乱だったりするということ。
巨視的視野に立って世界を見つめることが必要だ。
人を信じて裏切られることだ。そこから何かがつかめるかも知れない。
ぼくは沢山の人に裏切られてきた。
でも、決して人を裏切らないように努力してきた。
それは、ぼくが「公正さ」を求めるためだろうか。それとも、他者とつながることによって「ネットワーク脳」(藤原和博)を勝ち得るための処世術だからだろうか。それはぼくにも分からない。
ぼくは馬鹿正直な教師を演じてしまっているのだが、その結果何を得られたのかはよく分からない。子どもを立派に育てた満足も得られなかった。悲惨である。
少なくとも、何人かの生徒は、ぼくの期待を超えて、知的で行動的な人物になると信じている。それが唯一の慰めだ。