時代を見限って次に行こう

人生は苦しみであると仏は教える。このことを最近実感できる若者はいない、とある先生は言っていた。それはそうだな、と思う。
生きるためには食べていかなければならず、そのためには身を削って仕事しなければならないのだが、仕事といったって今の世の中、それほど優れて楽しい仕事などあるはずがない。
そもそも仕事の成果が数字のみで語られていないか。仕事の目標が数字でしか語られていないのではないか。これは上田紀行氏が『生きる意味』(岩波新書)で指摘していることだが、その通りだと思う。そこでは、組織内でのコミュニケーションが、数字に魂を売り渡した結果、荒んだものにならざるを得ない。「どうして(会社の)組織がギスギスするのか」というテーマの新書が、先日近所の書店に並んでいたが、これもまた数字に魂を売り渡しコミュニケーションが失われてしまった結果なのだと思う。
僕も仕事が決まる前は、いろいろな期待と不安を抱き、新しい職場に入っていくときには、さまざまな希望や期待を持っていたが、そんな気持ちを維持し続けることは難しいと思うよ、最近。
そんなツマラない時代を生きている私たちではあるけれど、巷にはさまざまな娯楽があり、気分を発散させるものに事欠かないのだから、こんな状況でもまずまずやっていけているのも事実。(といっても、非正規雇用が4割とかいってる時代だから、おちおち娯楽費に金をかけるなんてできねーよ、と言う人もいるのだろう。)
やっぱり、これまでの価値観を変えて、新しい生き方(生きる価値)を見出していく必要があるのだろう。
僕は最近マジで、休暇のあり方を変えていくべきだと思っている。
それほど贅沢な暮らしを望んでいないから、収入は増えなくてもいい。それよりもっと休暇が欲しいと思う。
ヨーロッパのの長期有給休暇というのは半端じゃなく、夏なんかみんなバカンスに行ってしまって、殆どの店が閉まっている。土日は休みが当たり前だし、駅などの公共機関だって9時過ぎると窓口はみんな閉まってしまう。夏にヨーロッパを旅行すると、ちょっと寂しい気がするが、クリスマスのシーズンもそんな感じだと聞いたことがある。
また『生きる意味』では、数年に一度半年の休暇が取れ、アジアを旅するアメリカ人の教師夫婦との出会いのエピソードが紹介されているが、本当にうらやましい。
今の日本の社会では、こんな話は不謹慎でしかないだろう。休むことは怠惰だといった固定観念がある。ビジネス書は、競争にいかに勝ち残れるか、その為にいかに時間を有効活用すべきか、そればかりを問うている。しかしそれはおかしなことだと僕は思う。休暇の価値が語りにくい、それは我々がだまされているからだ。政治や世間の常識に。
僕たちは、自分の身の丈にあった働き方をしながら必要に応じた休暇を取ることができるような生活を選択することが可能なはずだ。年収の額で人生の豊かさを測るなどといった馬鹿げた価値観から脱皮するという選択ができなくなっていることに問題を感じる。豊かな社会というのは、本当の意味で「生きる意味」をめぐる様々な冒険ができるようでなければならないのではないかと思う。