フラット化する社会と年齢と教師と

この数年、あまり人づき合いというものをしていない。
考えると、学生時代を過ぎてからというもの、濃い付き合いをしていないような気がする。
学生時代は、夜な夜な遊びに行って、そのまま酒を飲んだり、音楽を聞きながらダベったり、何人かで集まっては、くだらないことなのに真剣に議論したりしてたよなー、って思い返す。
薄い付き合いというのも、それはそれで悪くはないけれど、酒を酌み交わすのも社交辞令でしかないような世の中を生きていて、「大人の世界って詰まらないよね」って、、、、、、、ホント思います。

子どもたちは、人間関係にとても敏感で、本当の人間同士の邂逅ってやつが何だか分かってないくせに、やたらとうるさいことを言ったりする。
以前、ある生徒は、「先生って、他の先生と話が合うの?」と言ってきた。
鋭いこと言うじゃねーかって、ちょっと苦笑いしながら、「オレは若輩者だから我が侭言っても許されるんだよ、他の先生たちはみんなベテランで、寛容な人たちだから、オレみたいに自由にやっていても許してもらえるんだよ。だから、けっこうオイシイ立場なんだぜ」みたいなことを、ことさら吹聴してみたりする。
でも、ちょっと虚しい感じもした。

子どもたちは幼いが、大人もまた幼い。
戦前と戦後では、生きた時代の差がそのまま世代の差になっていたが、
戦後に生まれた「戦争を知らない」世代の人間たちは、世代の差といったものを持たず、
せいぜい学生運動を経験したか否かくらいの違いがあっても、
親と子がタメ口を利き、生徒と教師がタメ口を利くことが当たり前の、フラット化した社会を生きているのである。

しかしその学生運動も、実は世代間格差の根拠とはならないことは今では明らか。一部のインテリゲンチャと大衆の分水嶺で起こった現象で、同世代ですら共有できない体験だった。
もう、今の時代に、年齢の差だけで「先生」が成立しないことは必然である。