生きる意味

人は何の為に生きるのか。
実存主義の哲学では、人は何かの目的のために存在するのではなく、人が生きていると自然発生的に目的が作られる、という。(NHK100分で名著、サルトルの回)
テーブルや椅子は、ある目的があって存在している。
しかし人間はテーブルや椅子ではない。
だから、人は様々な目的(目標)を持って生きている。
例えば、僕は昔、モンゴルの草原に暮らす人たちは、何が楽しくて、あの「何もない」草原に暮らしているのだろう?と不思議に思ったことがある。
でも、「何もない」と思っているのは、日本の都会に暮らす人間の見方でしかなく、モンゴルの草原に暮らす人たちにとっては豊かな土地と映っているにちがいない。
逆に、モンゴルに暮らす人たちにとって、コンクリートジャングルの東京は、人が暮らすべき場所じゃないと感じるかもしれない。
どこに生まれたかで、人は様々な価値観や生きる目的を持つのだな、と腑に落ちた瞬間だった。
そのことを思い出すと、実存主義の考え方は道理が通っているように思われる。

では、「わたし」は何のために生きるのであろうか。
これは個人的な問題であって、一般化することも普遍化することも無用である。自分が納得できる目的なのであって、他人に迷惑をかけるのでなければ、何を目的に生きようと自由である。
今はその自由が保障されている時代だ。
仕事に燃えるもよし。仕事以外の趣味の世界に没頭するもよし。
一人で穴倉に籠って、社会と隔絶して生きるでもよし。
社会で人とのつながりをもとめて暮らすもよし。
選択肢は無限だ。

では、「わたし」は何のために生きるのであろうか。
沢山学んで、自分の能力を高めること。
では、何の為に?
多くの仲間と出会って、活動の幅を広げること。
では、何の為に?
このように、どのような解を出したとしても、「では、何の為に?」とさらに掘り下げた答えを必要とする。
これを突き詰めると、どうなるだろうか。
「楽しい」「刺激的な体験」「感動」
そんな単語が頭を掠める。
開き直って、「それがどうした?」と言えばよい。
やはり、人は、多くの「楽しさ」と「刺激」と「感動」を求めて、様々な活動に精を出すのではないだろうか。
その内実と質は、人によって大きく異なるだろうけれど。