ミニマリズムの時代におけるモノ

春が近づいてくると、なんとなく浮き浮きしてくる。
行きつけのスタバでは、桜ブレンドコーヒーが販売されていて、花見がアピールされた掲示物があって、すっかり花見気分。
太古の昔から桜を愛でる日本人の心性に、自分もぴったりハマっている。
普段なら日本という一語で一括りにされると抵抗を感じたりするのだが、こういうときは「日本人のDNA」というレトリックもすんなりと受け入れられる。桜は日本人を統合する象徴なのかも知れない。

都心住まいを始めてまだ4、5年だが、郊外の生活と比べて都心の良さを昔以上に感じるようになった。
都心というとコンクリートジャングルで、なんて言うけれど、
ゴミもやたらに落ちてるなんてことないし、街並みもきれいで整理され、景観もすっきりしている。
また、おしゃれなカフェや洗練された店が多く、ノマドワークにはもってこい。
街を間取りと思って生活することができる。
そんなところが気に入っている。

ミニマリストにとって広大な屋敷は不要だろう。
学者ならいざ知らず、僕のような一介の風来坊は家に図書館を作る必要はなく、
必要なら図書館に出向けばいい。電車に数駅乗れば大きな書店にだって行けるだろう。
必要な本は買えばよく、不要になれば売ればよい。手元に何も残さない。
ミニマルな暮らしは、モノを蓄えることによってではなく、モノを循環させることによってより豊かになる。
そういう発想は、これからもっともっと広く浸透していくのではないか。
実際に、今はモノが売れない時代だ。
液晶テレビの厚さが5センチから3センチになったからって、急に人の購買意識が高まるわけではないように、今のモノをめぐる状況はかなり複雑になっていると思われる。
多様な趣味や価値観に対応できるようなモノづくりが求められているのだろうと思う。
また一方で、逆説的だけど、スタンダードなものが求められている時代でもあると僕は感じている。
標準化と個別化の両方が必要な時代なのだ。