ブッキョウ

最近は自分の職種への適正を疑っている。
自分の受け持つ子どもは、ままならず。同僚たちとの会話も、どこかぎこちない。同僚は基本的にいい人たちなのだが、自分の立ち位置が決まらないために、何か多大なご迷惑をかけてしまっている感が拭いきれない。結果、自分の判断を鈍らせ、円滑なコミュニケーションを疎外してしまっているようなのである。
今日は何故かいつもより以上に自分を不甲斐なく思い、情けない気持ちを抱えながら退勤した。
僕は、基本的に宗教を胡散臭く思っているが、チベットについてのイシハマ先生の講義を受けたためか、ブッキョウにはちょっと興味深き思いを抱いているのである。
そして、達観の境地に浸ることを快しとする心性が、いつのまにか備わってしまったようである。
情けない自分に身もだえしている自分を遠目から見て、アホと言っている自分がいる。その自分は「せいぜい苦しめ」と冷たく自分に言い放つのである。
そして、世界を輪廻の苦しみと説くブッキョウは、いつのまにか、自分の心の拠り所となってしまった。
限られた短い人生を生き抜くには、普遍的価値をもつものに寄り添う必要がある。そうでなければ、強風が吹いた途端に倒れてしまう。それくらい人間は弱い生物なのではなかろうか。これ以上、傷つきやすい生物が他にいるだろうか?と思う。
ブッキョウの達観の境地に立つことは、所詮有限であるところの、この人生の儚さを乗り越えて行く上での、唯一の防衛策なのである。