白洲次郎のドラマを見て

昨日の夜、白洲次郎のドラマを見ました。
少年時代の犯行ぶりとか、父親への反抗とか、「ドラマ」になっちゃってる感は否めませんでした。もともと「ドラマ」と言ってるんだから文句言えませんけど。
それでも、白洲次郎近衛文麿に盾突くシーンは、なんか妙に説得力があって、そうだよな~と感じさせられました。
「持てるものは、与えるべきである」
それが、白洲次郎の「良心」だというのです。
もちろん、こうした言葉を吐けるのは、彼が「持てる者」だったからなのでしょう。今日の暮らしもままならない庶民であったら、そうは言えるはずがない。
ケンブリッジでの9年間の暮らしについては多く描かれていなかったけれど、英国での学生生活によって「世界」はよりヴィヴィッドに感知されることになったのだろうと想像を掻き立てられます。
単なる反骨精神があるというだけでは、反社会分子として葬られかねない危うさがあった。
そこには、白洲次郎の絶妙なバランス感覚があったはずだと思うのですが、それについては僕には何も語る材料がありません。
少なくとも、戦前の知的上層の中に、こうした使命感があったのだということは記憶しておくべきだと思いました。もちろん、近衛文麿にしたって、持てるものなりの使命感はあったのかもしれませんが、戦争へと転げ落ちていく時代の趨勢の中では、何もできなかったし、その流れに加担していくことにもなったのでしょう。
では、なぜ白洲次郎は、その良心を持ち続けることができたのか。
彼の反骨精神を考えるとき、きっとこの問いに立ち戻ることになるのだろうな、と思ってドラマを見終えました。また来週を楽しみに。