手帳選択と生き方

上田紀行著『生きる意味』(岩波新書)を読んでいる。
上田によれば「私たちを抑圧するシステムの本質は、『人の目』と『効率性』の合体にある」のであり、「常に『私はいま効率的に生きているか?』という意識を強く持たなければならない」世の中だ。「構造改革」とは、アメリカが強要する「グローバル・スタンダード」を受け入れた結果であり、そこでは人が「生きる意味」を喪失せざるを得ない、と上田は言う。

昨今の手帳ブームとは、実はこうした効率優先の至上価値を体現しているだけではないのか。
生きる意味を希薄にさせ、自己の存在感覚を麻痺させるような流れに迎合しているだけではないのか。

ぼくの感覚では、「知的生産の技術」の延長上に今の手帳ブームがあるのだろうという認識だった。
しかし、そうではないのだ。
年功序列が崩壊し、ベンチャーが大きな注目を得るという流れは90年代の後半に発生している。シリコンバレーが注目されIT革命が叫ばれた。組織内の常識や評価を乗り越えて、広く市場の中で自己の価値を問うことが「ベンチャー」なのであった。
市場の中で絶えず自己を評価され、その存在価値まで問われるという個人の出現が、この失われた10年に起こったことだ。その中では、個人はいかに効率的に生きているかを問われることになる。
手帳ブームは生まれるべくして生まれたのだ。

こうした文脈とは一線を画すかたちで、このブームに乗った人たちも多いだろう。
ほぼ日手帳」は、決して効率優先の手帳ではないような気がする。むしろ、日常の中で見過ごしてしまうような小さなことを、そっと書き留めること。些細なことを見逃さず、立ち止まってそれらを凝視する姿勢。それを奨励したのが「ほぼ日手帳」だった。言ってみれば「スローライフのすすめ」であったのだろう。
今の「構造改革」に反動する形で、当然のことながら「スローライフな生き方」が唱導されることになるだろう。そう考えてみれば、手帳を選ぶことは、まさに「生き方(イデオロギー)」の選択になっているのかも知れない。