「私たちの幸せな時間」

「私たちの幸せな時間」という映画を観た。http://www.shiawasenajikan.jp/

とてもいい映画である。

最初は甘いラブストーリーか涙の悲恋物語だと思っていたので(本当に予備知識ゼロだったから)、冒頭の惨殺シーンを見て、おいマジかよと思った。この映画は、殺人犯(彼は極刑を言い渡されている)の青年と、自殺願望を持つ女との奇妙な心の交流を描いている。
奇妙というのは、設定がちょっと「ありえない」と思うからだ。
死刑囚と、彼と何の縁故もない女性が、週一度何の仕切りもない普通の部屋で面会できたり、お弁当持ってきて食べさせたりするのだが(韓国の刑務所のシステムはそうなってるのか?)、そしてそういう関係の中で、青年は次第に心を開き、世界への信頼を取り戻し、良心に目覚め、生きることを熱望しだすのである。そして、青年の過去の悲惨な境遇や、それゆえに犯罪に手を染めてしまった身の不幸が語られるにつれ、同情と共感を持って彼の罪は免責されることになる。それは、ちょっと僕には、美しい物語のまとめ方にしか思われなくて、こうした描き方は涙を誘うし、それでカタルシスを得られるのだから娯楽映画としてはいいのだろうけど……なんて思いながら観ていた。

ところが、である。どうも後半あたりから、そんな美しいだけでまとめられてる映画ではないということに気づいてきた。
自殺願望を持つ女が過去に受けた深い傷、それによって生まれた母親との確執や、それゆえに居場所を失い孤独になっていく彼女の境遇が明らかになるにつれ、そしてそれを赦そうとする彼女の姿に、何かこの映画のもう一つのテーマを読み取ることができる。
それは「赦し」である。
たとえば、殺人犯の男に面会を求めた老母。彼女の娘は、その男によって殺されたのだが、彼女は韓国社会の取り残された貧しい路地の社会に生きている。そしてキリスト教を信仰している(韓国社会におけるキリスト信仰は、そのような庶民の中に生きているものなのだろうとその映画を観て思った。)
その老母は、自分の娘を殺めた男を「赦そう」とするのだ。それが神の教えだからだ。
殺人犯の男は、はじめキリスト教を毛嫌いしている。なぜなら、彼らは善人ぶって「土足で自分の心に踏み込んでくる」から。しかし、その彼が、面会に来た老母の姿に怯え、許しを請う。
社会や他人に傷つけられて生きてきた人間は、他者を傷つける。暴挙が暴挙を生み、無限の連鎖を生み出していく。その連鎖に生きることを強いられた人間に「赦し」は可能か? この映画はそれが可能だと言いたいのだ。なぜなら、彼の「赦し」へと至る過程が、とても感動的だったから。

最近の日本映画をそれほど熱心に観ているわけではないが、きっと今の日本にこんな映画を撮ることはきっとできないだろう。ハリウッドにもなれないし韓国にもなれない。「大日本人」なんか、もう本当にどうでもいいじゃないか?(まだ観てないけど…)