「超」整理法を読む

今、「超」整理法を読んでいる。
以前も軽く目を通したことがあり、封筒を使った「押し出しファイリング」については知っていた。
野口氏の面白いところは、「情報は分類できない」と言い切った点だ。そのため「押し出しファイリング」には、「分類」という概念が一切無い。ファイルの並びは、時系列という潔さ。著者が「検索の第一キー」と呼ぶもの、それが時間軸である。
そういえば、和田哲哉氏のノートに関する記述で最も印象的だったのは、時系列のシンプルなリングノートの魅力の部分であった。
『「超」整理法』を読んでいて面白いことは他にもある。それは、野口氏の作り出したユニークの造語の数々・・・。「こうもり問題」「図書館方式」「マゼラン的仕事」「センチメンタル・バリア」「家なき子」などなど。こうしたユニークな言葉が妙に頭に染み付き、思考の方式を強固に束縛し始める。やがては、野口マジックとでもいうべき一大感化へと至る。これが野口悠紀雄氏の著作の魅力である。
30年以上も前に書かれた梅棹氏の『知的生産の技術』。この書物の力は、今もなお衰えてはいない。現在もなお、まずはここからスタートすべきである、とぼくは思っている。というのは、多くの人にとって自明の「分類」ということを、とても有機的に考えている傑作だからである。例えば、梅棹氏の提案の最たるものは、<ノートからカードへ>ということもそうなのだが、それ以上に「書斎の空間分化分類整理の方法論」ということにある。それは例えばオープンファイルを使うことや、ファイリング・キャビネットを使うとかいうことである。ところが、こうした「分類」を基本として知的整理術・知的空間の創出を、根本から覆そうとしたのが、野口氏の『「超」整理法』なのだと言えるだろう。
今のノートや手帳に対する関心の中心には、<知的生産の技術>がある。PC等のデジタル技術が躍進した今、アナログなノートが注目されたのには理由があるだろう。そして、ノートに対する関心を押し広げて行けば、書斎や知的情報空間の創出、ひいては個人の情報管理システムのありかが問われるのは必至である。そういった意味で、『「超」整理法』は、誰もが一度は通る道なのだと思う。