分裂する「私」

楽しい話題といきたいところですが、仕事の現実はどうも暗い方にばかり進んでいます。
学校というところは組織で動いているのですから、当然自分の思うとおりではないことがあり、意に沿わないことにも従わざるを得ません。
こういうときの「自分」というものを、ぼくは客観的に捉えるように努めています。
それはどういうことになるでしょうか。
ぼくが考えるに、ひとつは「公的な私」です。この「公的な私」には二つの側面があります。それは「集団として動いている私」であり、もう一つは「個としての私」です。公的な場面においては、集団の意思に従い、集団を代弁するような行動をとらなければならないことがあります。一方で、こうした集団の論理とは対峙したり緊張関係を保ちながら、個人としての立場で責任を持ってなされる行動がある。教師の仕事というのは、ぼくが考えるには、公的な私のこうした二つの側面が複合して作用しています。
そして他方に「私的な私」があります。つまりプライベートな私です。

間違えないようにしなければならないのは、公的な場面における「個としての私」と、私的な場面における「個としての私」との区別です。

ある時ぼくは、公的な立場で、私個人としての意見と私の属する集団としての意見と、二つの意見を述べなければならないことがありました。しかし、いずれも公的な立場での発言です。
しかし、一方で「本音」といってもいいような私個人の意見があったのです。それは私的な意見と呼ぶべきものでした。こうした経験が、こうした「私」という主体の問題をめぐって考えるきっかけとなったのでした。「本音と建前」という言葉は、こうした問題の一端を示しているとも考えられます。