学ぶことと社会階層をめぐって

学生時代は、小難しい本を手に取っては悦に浸っていたものだった。
ニューアカデミズム以後の伝統なのか、そういう難しそうな洋物思想中心の世界こそアカデミックなものと思い、かえって等身大の思考を忘れていたような気がする。
たとえば、20歳そこそこのぼくにとっては、音楽と女の子のことしか頭になく、それなのに、バンドも組まず、彼女も作ろうとしなかった(できなかった)。
頭の中に楽園を思い描いているだけのオタクと同様、実際的な行動や、現実に直面することは避けようとしていたわけだ。今となってみれば、等身大の欲望にまみれて自己の卑小さを自覚するいいチャンスだったと後悔する。
おもいっきり恥をかいて、みっともない自分をさらけ出していたらよかったのにと思う。
もう30代後半の年齢になっている身としては、そんな若かりし頃の自分を、懐かしくも微笑ましいような、それでいて煮え切らない苛立ちを抑えきれないような、そんな相矛盾した感情をもって眺めるよりほかはない。
 
今自分が大学生に言ってやれることがあるとすれば、月並みで恐縮だが「何でもやてみろ」の一言に尽きる。
「何でも」というのは、お前が思いつく限りのことすべて、という意味だ。
遊びたければとことん遊ぶべきだ。
そのためには、小金を稼ぐ方法と処世術のイロハを学ぶべきだし、女と知り合いたければ、恥を覚悟で女に声をかけるしかない。そこで自分の価値がどう他人から査定されるのかを知るチャンスでもある。また、女は一人だけじゃないということも学ぶだろう。
また、何かを始めるには、学ぶことに積極的になれなければならない。というか、「学ぶ」うえでのフットワークの軽さ、速攻性、そこで必要な精神の静謐さをいかに獲得するかの技術(というか知恵)、そういったことを身につけるには、やはり人生経験が要る。甘ったれの大学生のガキにはちょっとムリかも、と思わなくもない。
でも、そうしたことをも「学ぶ意欲」が必要なのだ。そのためには知性が要る。打たれ強さは、未来をプラニングできる先見性に裏打ちされているのだし、我慢とは、そのプランにおける現在地を冷静に評価する力そのものと言ってよく、それらが総合的に、その人間の生き様を形成しているのである。
 
俺は今の日本のテレビをはじめとしたメディア状況をクソだと思っていて、自分の未来も自分で決められないような軟弱な連中を覚醒する必要は、昔以上に増していると思っている。しかし、メディアはあのテイタラク
だからこそ、こんな文章をブログで発表しようとしているわけである。
 
それから、大学を卒業する彼らに言いたいことは、「働け」の一言に尽きる。
ただ、どんな仕事を生業とするか。そこは選べ。
もっとも今の時代、仕事を選べるほど甘くないっすよ、という声が聞こえてきそうだ。
そういう彼らに言いたい。まず、食うために働け。そして、そこで学べることがあったら学べばよい。
でも、時として、むかつくことや満たされないことが往々にしてあるものだ。それを我慢して受け入れる必要はない。我慢していることを忘れず、より高いレベルの自分にステップアップする契機とせよ。
いつか、お前に相応しい仕事に辿り着くはずである。
世間では一般的にそんなことを言わないが、オレはウソだと思っている。
誰もが、現実社会に学ぶうちに、自然に、自己の特性を自己認識し、そして自分にとって相応しい仕事を見つけるものなのだ。
それを怪しいと疑っている輩もいることだろう。
でも、オレは断言する。お前が派遣で一週間苦労した労働の半分以下の仕事で、お前の3か月分の金を稼ぐことができる連中がいるのである。それは彼らに能力があるからではない。人間の能力など五十歩百歩である。
そうではなく、この社会には、あるレベルの仕事ができると期待されて高給が保障された人種と、期待されない人種とに大きく分割されているということである。実態とは無関係に。
大切なのは、自分の能力を悲観などすることは全くの無意味であり、この社会には能力の実態とは無関係に、(推定)能力の格差が概念的に作られており、それにしたがってさまざまな職業があるということ。
その推定的な格差のもとに、楽に稼げたり、苦労してもなかなか稼げなかったりする現実があるということである。
俺としては、とにかく、「学ぶ力」こそが大事だということを言いたい。
学歴の有無とは関係がない。また、「学ぶ力」が社会の現状とどう結びついているのか、それを分析する力もまた「学ぶ力」如何なのだということ。